تسجيل الدخول「覚えているな」 低い声で、セドリックが言う。「夫人二人と、あなたのお母様」 「ああ。ジュリアンヌ夫人、母、護衛頭だ」 「順番も」 「分かっている」 「……」 それだけの確認なのに、近い。 近すぎる。 控えの間の灯りは落とし気味で、外の喧騒は扉一枚向こうにある。 ここで彼が手を伸ばせば、何かが変わってしまいそうな距離だった。 だがセドリックは、すぐには触れなかった。 ほんの一拍だけためらい、それからゆっくりと手を差し出す。「行くぞ」 リリアーナはその手を見た。 骨ばっていて、指が長く、男の手だと分かる。 前世でも何度かその手を取った。 舞踏の時。 階段で。 馬車へ乗る時。 でもそのどれも、形式の中の接触だった。 今のこれは、形式でありながら、同時に共犯の合図でもある。 指先が少しだけ震える。 それでも、リリアーナは自分からその手を取った。 セドリックの指が、わずかに強く閉じる。 すぐ離せる程度の強さ。 でも、逃さないとも言える強さ。「……怖いわ」 「知っている」 「嘘。知ってても分からないでしょう」 「分からないな」 「正直ね」 「今さらだ」 その短いやり取りのあと、扉が開かれた。 * 二人が並んで会場へ入った瞬間、ざわめきが一拍遅れて広がった。 それは決して大きな喧噪ではない。 上流の夜会らしく、誰も露骨には騒がない。 けれど、音楽の裏で、笑い声の隙間で、空気が一斉にこちらを向くのが分かった。 冷徹侯爵。 婚約破棄の噂があった令嬢。 最近やたらと近すぎると言われていた二人。 その二人が、今夜は最初から並んで入ってくる。 それだけで十分だった。 セドリックはリリアーナの手を離さず、会場の中央へ向かう。 無駄のない歩幅。 視線はまっすぐ。 いつものように冷たい顔だ。 だがその冷たさの下に、自分の存在をはっきり周囲へ示しているのが分かる。 リリアーナは息を整えた。 怖い。 視線が刺さる。 でも、彼の腕に軽く手を添えたまま歩いていると、不思議と足元はぶれなかった。 支えられている、というより、支え合っているような錯覚が一瞬だけ生まれる。 その錯覚が危険だと分かっているのに。「見ろ」 セドリックが、ほ
セドリックは机の上へ小さな紙片を三枚置いた。 それぞれに、簡単な日取りとルートが記されている。 あまりに手際がよくて、リリアーナは一瞬だけ呆れてしまう。「……随分慣れているのね」 「慣れたくはなかった」 「そうでしょうね」 「だが必要だ」 必要。 その言葉に、前よりは少しだけ違う温度を感じる。 以前の彼は、その一言で全てを片づけていた。 今の彼は、“必要だから”と口にしながらも、それだけでは自分が納得しないことを分かっている顔をしている。「私がやることは」 「今夜の夜会で、私と並ぶ」 「……」 「私が耳打ちするふりをした時、少しだけ表情を変えてくれ」 「表情?」 「どの婦人や使用人がそれを見ているかを、こちらで拾う」 「それだけ?」 「それだけではない。帰り際、君は一人の婦人にだけ、三日後の早朝、と聞こえるように言う」 「誰に」 「ジュリアンヌ夫人だ」 「……お義母様寄りの」 「そうだ」 「もう一つは?」 「北門側の話は、母に」 「あなた、自分のお母様を餌にするの」 「今さらだ」 静かな声音だった。だがその中にある冷たさは本物だ。 母を疑いたいわけではない。 けれど、信じきることもできないのだろう。 前世で何が起きたのかを知っている以上、その冷たさは理解できる。理解できてしまうことが、また少し痛い。「夜明け前の出立は?」 「私が、あえて護衛頭にだけ言う」 「あなたが」 「ああ」 リリアーナはしばらく黙った。 共同作戦。 餌。 夜会。 同じ夢を見る人と、同じ敵を炙り出すために並んで立つ。 前世の自分が聞いたら、きっと信じない。 でも、今の自分にはもう、完全に拒むこともできなかった。 あの襲撃は、自分を狙った。 次があるかもしれない。 その前に内通者を見つけられるなら、やるべきなのだろう。 侯爵家のためではなく、自分が生き延びるために。「分かったわ」 やがて、リリアーナはそう言った。「やる」 「……いいのか」 「よくはないわ」 少しだけ皮肉を込めて返す。「でも、ここまで来て“怖いから嫌”なんて言っていられないもの」 「怖いのか」 「怖いに決まってるでしょう」 思わずそう言うと、セドリックの目が少しだけ動いた。 驚いたのではな
その提案を、リリアーナは最初、冗談かと思った。「関係修復したように見せる?」 伯爵家の小さな応接間は、午後の薄い光で静かに満たされていた。春は近いはずなのに、今日の空はまだ冬の名残を引きずっていて、窓の外の庭木もどこか色を失ったように見える。暖炉の火は小さく、消えきらない程度にくすぶっているだけだった。火の匂いと、紅茶の湯気、それに窓辺へ置かれた白い花のごく薄い香りが、部屋の中で静かに混ざっている。 その静けさの中で、セドリックの提案だけが妙に浮いて聞こえた。「表面上だけだ」 彼はいつものように整った顔で言う。けれどその目だけは、ここ数日の彼らしい、少しも楽観していない色をしていた。「先日の襲撃は早すぎた」 「ええ」 「前世よりも」 「……そうね」 その確認を、今ではもう二人とも避けない。 前世。 同じ夢。 同じ悪夢。 同じ死。 その言葉を共有しているという事実が、まだ時々現実感を失わせる。けれど、共有しているからこそ、今は話が早い部分もある。あの襲撃が前世と違っていたこと。時期も、手口も、狙いの絞り方も。偶然では片付かないと、もう二人とも知っていた。「侯爵家の内側に、まだ誰かいる」 「……あなたは、前からそう言っていたわね」 「確信に近い」 「伯爵家だけじゃなく」 「ああ。伯爵家だけなら、あの早さにはならない」 リリアーナは膝の上で指を組んだ。手袋越しでも、自分の指先が少し冷えていると分かる。襲撃の記憶はまだ新しい。荷車の不自然な位置、馬のいななき、空気を裂く矢の音、そして誰より早く駆けつけたセドリックの声。そのどれもが、まだ耳の奥へ残っていた。「だから、表面を変える必要がある」 セドリックが低く言う。「敵が見ているものを」 「私たちの関係を?」 「そうだ」 あまりにまっすぐな言い方で、リリアーナは小さく息を止めた。 私たちの関係。 それが今、どんな形なのか、自分でもうまく定義できない。拒絶した。婚約は断った。侯爵夫人にはならないと、はっきり言った。それでも彼を完全な他人として切り捨てることもできず、同じ悪夢を知ってしまった者同士として、苦しい保留のまま繋がっている。 そんな曖昧で、痛くて、少しも美しくない関係を、今度は人前で「修復した婚約者同士」のように見せる。 滑稽
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。 愛がある。 そう、もうそれを完全には否定できないところまで来てしまった。 彼が最初から愛していたと言ったこと。 それが嘘ではないと、今はもう分かっている。 だからこそ、余計に厄介なのだ。 もし彼を憎むだけで済んでいたなら、どれほど楽だっただろう。 セドリックは低く言った。「私は」 「分かってる」 「何を」 「今度こそ違う愛し方をしたいんでしょう」 「……」 「沈黙じゃなく、言葉で」 「……ああ」 「でもね」 リリアーナは、そこでほんの少しだけ視線を落とした。 池の水面が見える。 白い空を映して、どこまでも曖昧な色だ。「私は、あなたを完全な他人としても見ていないの」 その言葉は、自分でも驚くほど静かに出た。 セドリックが動く。 驚いたのか、痛んだのか、その両方か。 でも今度は、リリアーナのほうが視線を逸らさなかった。「他人だったら、もっと簡単に拒めたわ」 「……」 「知らなかったら、もっと冷たくできた」 「……」 「でも、知ってしまったから」 胸の奥がじくじくと痛む。 怒りと、悲しみと、どうしようもない情が、全部混ざった痛み。「あなたを憎みたいのに」 「……」 「知ってしまったから、憎みきれない」 それは、たぶん今の自分に言える、最も正直な言葉だった。 愛しているとは言えない。 許したとも言えない。 やり直せるとも思わない。 でも、冷たいだけの男として切り捨てることも、もうできない。 その宙づりの苦しさを、今やっと言葉にできた。 セドリックはしばらく何も言わなかった。 言葉がないのではない。 たぶん、今の言葉以上に、自分へ正確に届いたものがなかったのだろう。 やがて、低く落ちる。「それでも」 「ええ」 「私は、諦めきれない」 「そうでしょうね」 「……」 「でも、婚約は無理よ」 きっぱりと言う。 ここだけは、曖昧にしたくなかった。「そこを曖昧にしたら、私はまた流される」 「……」 「苦しい保留ならできるかもしれない」 「……」 「でも、侯爵夫人にはならない」 セドリックの喉が動く。 彼は痛みを飲み込む時、そこが少しだけ目立つ。 それを知ってしまったことにも、また少し
「応接間ではなく」 「え?」 「庭の東屋にして」 言ってから、少しだけ息を吐いた。 侯爵邸の中の部屋は、どうしても前世の空気を呼び込みすぎる。 沈黙の食堂。 白い寝室。 冷えた廊下。 整いすぎた客間。 どこもかしこも、思い出が静かすぎて息が詰まる。 外のほうがいい。 たとえまだ春の冷えが残っていても。 風があって、空が見える場所のほうが、たぶん今はましだ。「かしこまりました」 エマが小さく頷く。 そのまま彼女は部屋の中のカーテンを少し開けた。 白い光が広がり、窓辺に活けられた淡い花がかすかに揺れる。 昨夜まではその光すら痛かったのに、今日はちゃんと光として見えた。 * 昼前、東庭の東屋にはまだ冷たい風が通っていた。 屋敷の裏手にある小さな庭は、社交用に見せる表庭ほど派手ではない。低木と、季節の草花、それに石造りの細い小道。奥には小さな池があり、春先の薄い空を鈍く映している。東屋の屋根へは白い蔓がまだ葉をつけきらず、骨組みだけが繊細な影を落としていた。 椅子と小卓が置かれ、暖を取るための小さな炭火鉢が用意されている。エマが念入りに敷物を整え、主人の膝へ掛けるための厚手のショールも持ってきてくれた。「冷えたらすぐお戻りください」 「ええ」 「本当に」 「大丈夫よ」 「侯爵様がお相手だからといって、無理にお顔色を保たなくていいのですよ」 「……そうね」 その一言に、少しだけ笑ってしまう。 侯爵様が相手だから、ではない。 むしろ相手が彼だからこそ、顔色を保ちたくなくなる。 怒りたいし、泣きたくもなる。 そして、そのどちらもきっと見られてしまう。 セドリックは時間ぴったりに来た。 黒に近い濃紺の上着。風を避けるためか、襟元はきっちり留められている。だが今日の彼は、いつもよりほんの少しだけ整いが甘く見えた。髪の一筋が、額の近くでわずかに乱れている。たったそれだけのことなのに、昨夜からほとんど眠っていないのだろうと分かった。 リリアーナは立たなかった。 座ったまま、彼が近づいてくるのを見る。 セドリックも無理に手を取ろうとはしない。 東屋の入口で一度止まり、軽く会釈してから中へ入ってくる。 その慎重さが、昔にはなかったものだと知っている。 昔なら、こういう
エヴェルシア伯爵家を切り捨てると決めた翌日、リリアーナは驚くほど静かに目を覚ました。 泣き疲れた朝の重さも、怒鳴ったあとの空虚さもなかったわけではない。胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。だが、その痛みは昨日までとは少し違っていた。曖昧な苦しさではなく、形のある痛みだ。家族だと思っていたものが、最初からそうではなかったと知ってしまったあとに残る、静かな傷。 窓の外は白い朝だった。雲はまだ多いが、薄い光は確かに差している。庭木の先には、小さな芽がいくつも見えた。春は遅い。遅いけれど、止まってはいない。 寝台の上で身を起こし、リリアーナはしばらくその光を見ていた。 伯爵家の本性。 父の書いた走り書き。 継母の手紙。 商会とのやり取り。 それらを胸の中でもう一度なぞってみても、気持ちは揺らがなかった。 自分は売られていた。 前世でも、今世でも。 娘の幸せという柔らかな布を被せられていたけれど、中身は金と体面だけだった。 そう分かってしまえば、逆に迷いは消える。 切るべきものを切る。 離れるべき場所から離れる。 それだけだ。 でも、もう一つだけ、切れないものが残っている。 セドリック。 その名を心の中で呼ぶだけで、胸の奥が少しだけざわめく。 前なら、ただ冷えるだけだった。 今は違う。 怒りもある。 悲しみもある。 そして、それだけでは足りないと知ってしまった苦しさがある。 前世で最初から愛していた。 守るための沈黙だった。 正しい判断と正しい愛し方は別だった。 そう言われて、許せるわけではない。 けれど、知ってしまった以上、昔みたいに「冷たいだけの男」とも言い切れない。 それが一番厄介だった。「お嬢様」 エマがそっと入ってくる。 盆の上には朝のお茶と、小さな白い封筒があった。 リリアーナはその封筒を見た瞬間、妙な予感を覚えた。 伯爵家の紋章ではない。 母方の家の印でもない。 だが、白い紙へ押された封蝋の形を見れば分かる。 ヴァレンティア侯爵家。「……また?」 「はい」 エマの声音は慎重だった。 たぶん、昨日のことを知っているからだろう。伯爵家の本性を突きつけ、父と継母へ決別のような言葉を吐いた娘に、今日はまた侯爵家から手紙が来る。普通なら、心
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま







